2019年04月17日

つぶやき その138

≪ 南魚沼雲蝶会 第11回の講演会が終了しました。 ≫

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2桁になった講演会も、お顔馴染みの方々が多くなりました。平日の午前中にも関わらず、雲蝶に関心の深い雲蝶ファンが集まってくれて、講演会とは名ばかりで、【雲蝶を盛り上げる会】に改名した方がいい程にたくさんのアドバイスをいただきました。
石川流の技を習得した雲蝶は、一体どんな人物の門人になったのか、石川流の祖を辿りながらその時代の彫り物師の系図を書きこんでいったら大きな巻物になってしまい、それを拡げて話をしている写真を見ていただく限り、ここは講演会場ではない! 戦略会議でもしているかのような(笑)

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日本人の熱しやすく冷めやすいという性格から、雲蝶がブレイクして5年が過ぎてしまうと人の目は次のブームのターゲットを探します。何かのきっかけでそれに火がつくと、あれよあれよという間にブームに乗って、アタフタと対応におわれているうちにいつの間にか人の気配がしなくなる・・・・
ブームはやっては来ますが去っても行くという事の繰り返しだと最近納得しています。
それを納得した上で、石川雲蝶はブームで終わる人物ではない事を確信する為、改めて吠え続けて行くことを自身に言い聞かせています。



今回の講演会の中で 「まぼろしの六歌仙」 についてたくさんのアイディアが出ました。
私の現在の課題としてどうしても探し出したい欄間の事です。
以前、このブログの中でも紹介していますが、過去に遡って読み返す事はなかなかしません。
また初めてこのブログを覗いてくださる方も、何の事を話しているのかわからないようでは困りますので、改めてこの「まぼろしの六歌仙」について書かせていただきます。

少し長文になりますが、お許し下さい。

石川雲蝶の経歴などはパンフレット等で知ることができ、越後におよそ1千点あまりの作品を作り置きしたといわれています。160年ほど前の時代です。私が知る限りでは、その殆んどが越後の地内で守り通され県外に流出した話は伝えられていないんです。
そんな中で唯一昭和56年頃、1点だけ県外に流れ出て行った作品がありました。それが「まぼろしの六歌仙」です。

平安時代初期、紀貫之が列挙した小野小町を含め6人の歌人を2枚の欄間に3人づつ彫り分けた格調高い色彩を施した浅彫りの作品です。

この六歌仙は誰が何の為に、誰の為に雲蝶に彫らせたのか一連の経緯が全て明らかになり、そしてどういう理由で県外に出て行ったのかもわかりました。
40年ほど前に持ち主は1億円で売りに出したことがあったのですが、当然売れる訳はなく随分安く手放したといわれそれが名古屋方面に流れていった・・・そこまでハッキリとわかっているのなら探すのは簡単だと、思い上がりもいい所でした。
どんな方法を尽くしても未だに発見することはできません。

なぜ探し出したいのか、たった1点くらい仕方ないと誰もが思うかもしれませんが、どうしても探し出したい訳があるのです。
この六歌仙の欄間は、雲蝶が当時兄弟のようにして世話になっていた真嶋亀蔵が、自分の家に来てくれた嫁の実家に対して、いい嫁が来てくれてよかった、と言ってお礼に贈ったものです。
その欄間が回りまわって最後に200両という大金で、堀之内の山間の集落の庄屋の家に引き取られて行ったんです。
ところが、近代になってその集落が廃村になる事が決まり、僅かな住人は各地に引っ越す事になり庄屋の家ではこの欄間を売却することを決め、200両が今の金額に換算すると1億円くらいになるとして、1億円で売りに出したのです。

もちろん、売れる訳がありません。
最後は随分安い金額で手放したようです。名古屋と言っているのではなく、「名古屋方面に」ですから、キチンとした場所を示している訳ではありません。そして、その事を記憶に残している人たちはもう既に、土の下で静かに眠っている人たちばかりです。
実際の欄間を目にした人は数えるしかいません。この写真を撮った人も、廃村になった村で生れ育った人です。
自分の故郷が無くなってしまう事を残念に思い、引っ越す前に集落の写真を撮っていました。
その中に、庄屋の家の欄間があまりにも立派だったので、それもカメラに収めたという事でした。

その方もまもなく90歳に手が届く年齢となり、故郷が懐かしいと言って六歌仙の話をしてくれます。
必ず見つけて見せてあげるからと、約束をして6年になってしまいました。

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六歌仙の写真はもうこの写真しか現存していないのだろうと思います。貴重な写真です。
この写真を見る事がなければ、私は実物を探そうなどと思いもしませんでした。40年前に流れ出て行った「まぼろしの六歌仙」を是非この世に浮上させて、他にある雲蝶作品と同様に陽の光を浴びせてやりたい。そして、懐かしがって楽しみにしている友人に対面させてあげたいのです。

そんな理由でガムシャラに情報があると駆け回っています。
講演会があればそこで話し、雲蝶ツアーに乗れば参加者に情報提供をお願いし、ブログやfacebookには忘れそうな頃になると投稿し、一歩ずつですが前進しています。

先日の講演会ではそんな事をお話しました。
偶然にこのブログを覗いて、何か少しでも気にかかるような事があったら情報をお寄せいただけますようお願いいたします。

ではまた来週

すい子
posted by 南魚沼雲蝶会 at 16:30 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年04月10日

つぶやき その137

≪ 長年探し続けてきたまぼろしの六歌仙に一筋の光明が射した! ≫

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4月11日(木)
このタイトルで今年初めての講演会を開催します。
「まぼろしの六歌仙」に関しては、長年叫び続けてきた甲斐あって、時折もしかしたらという情報もありドキドキワクワクする時がありました。実際にはまだ目の前に現れていないのが現状ですが、そこにこの度、一筋の光が射したように思います。
昨年の秋より群馬県から雲蝶の匂いがしてきました(笑)
やっとたどり着いた雲蝶の作品は棟札で確認されています。通常は非公開で施錠されているものを拝み倒して(?)撮った画像をご紹介します。

そんな話を中心に1時間半お付き合いいただきます。
宿の温泉も入浴可能ですので慌ててお帰りにならなくても、お昼を食べてゆっくりお風呂で温まってからお帰りください。

ではまた来週

すい子
posted by 南魚沼雲蝶会 at 09:37 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年03月27日

つぶやき その136

≪ 江戸時代の塩沢宿の事をちょっと・・・ ≫ その3
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さて、春の彼岸も終わり、やっと天候も落ち着いたようです。
雪深い南魚沼の桜の便りもチラホラと聴こえてきました。でも・・・また天気予報では雪のマークが・・・
季節の旬はホントに一瞬です。今年の桜は今年しか観れません(^^♪ 見逃さないようにしたいですね!

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では先回の話の続きですが、雲蝶と源太郎が手掛けたといわれた巨大な宣伝用の立て看板は、塩沢薄荷を象徴する名物となりました。
三国街道の塩沢宿の両端、上(湯沢寄り)には平野屋の看板が、下(長岡寄り)には鈴木屋の看板がそれぞれ店の前に立てられ、街道を行き来する旅人の目印にもなっていた事でしょう。

薄荷圓、薄荷油の効能はと言うと、今の時代とそれ程変わらないのですよ。病院に行って診察をして薬をもらって高額な医療費を支払って帰る私たち、病院に行くほどの事でもなければ、置き薬を飲んだり腰痛や筋肉痛などは貼り薬を貼ったり、スカッとするアンメルツ(宣伝料はもらっていません)など塗ってその場をしのぎます。

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この薄荷油というのも、鎮痛剤代わりや胃の痛みを抑えるために飲用したり、頭痛、歯痛時に湿布したりと、旅をする時の携帯用として珍重されていました。自家用の常備薬にするだけでなく、お役人を訪ねる時など手土産にしたり、贈り物として使われていたようです。
やっぱり昔も袖の下ってあったのですね。

この巨大な立て看板はその後長年塩沢宿のシンボルとして、旅人たちのいい話のタネになっていたのでしょう。
ところが明治12年、平野屋、鈴木屋両家の看板が余りにも巨大で華美過ぎるという理由で、警察から撤去するように言い渡されたんです。
その後、街道取締規制によって立て看板が禁じられると、平野屋の8代目の当主は「当家に幸福をもたらすだけでなく他の者にも利益となり通行上の問題は何もない」として存続を願ったのですが、結果、木が朽ちるまでという条件で許可されました。
しかし、そうなる前に大風で倒壊してしまったと言います。

その形の残る部位は、当時の平野屋の酒蔵の天井に押し込み、最近までそのままで手を付ける事はなかったのですが、当主が源太郎の手掛けた看板を気に入り売店の中に飾っていたようです。
近年になって塩沢宿の復元に道路拡幅工事が始まりました。どこの家も新築をすることになり、平野屋が敷地を掘り起こしてみたところ、当時の巨大な立て看板の土台が出てきました。

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それならと、土台と飾り彫刻、その他の小さな部位は新しい店の中に体裁よく飾り、薄荷油の看板は平野屋の主力商品「鶴齢」をPRする看板にリニューアルし店の屋根に掲げました。

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鈴木屋の看板は解体して鈴木家の菩提寺、長恩寺に寄進されました。今も雲蝶の見事な彫り物の各部位が位牌堂を飾り、さながら小さな美術館のようです。

こうして当時塩沢宿の街道筋を二分して賑わせた雲蝶と源太郎の手掛けた看板は、時を超えた現在も朽ちることなく生まれ変わった牧之通りに生き続けています。

ではまた来週

すい子
posted by 南魚沼雲蝶会 at 08:00 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする