2018年06月20日

つぶやき その107

≪ やったー!! 超美しい仏壇、見ぃーつけた!????  ≫

人のフンドシを借りる事の多いわたし・・・
最近は一人では何事も前に進まないという事を悟りました。
雲蝶に限らずその時代の歴史を作り上げてきた職人たちに興味を持ち、時間の余裕ができたから趣味の延長線上で、チョット関わってみようか、という方々が自発的に情報を下さる事が多くなりました。

そして、最大の課題である『 まぼろしの六歌仙 』の行方をずっと探し続けていてくれた方が「資料がなくなった。パンフレットと雲蝶ツアーのチラシを送ってくれ」と連絡をくれました。
以前送った資料は、1部づつ手紙を添えて著名な知人に郵送しているといいます。そして返事をもらってから次へ、そして又次へというようにしているので手間はかかるがより詳しい事が書けるとも話していました。

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自分が息をして動けるうちはできるだけのことをやろうと思う。年寄りだから無理をするなというのなら5部、ムチ打って頑張れというなら10部送ってくださいと言われました。
10部送りました。そして、足りなければ何部でも使ってくださいと、追伸しました。(まるで鬼のようです)
神奈川の相模原の方です。
六歌仙が発見された時には、必ず見る義務ができました(笑) 同志ですから!

それに合わせて、地元の知人から雲蝶のものらしい仏壇があると、嬉しい情報をいただきました。
仏壇はそんなに数多い物ではないのですが、場所が場所だけに勝手に「確信」して、連絡なしで飛んでいきました。

それがこの仏壇です。
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箱形のとてもワイドな仏壇で、彫りも詳細に彫られています。以前本で見た雲蝶作の仏壇と見分けがつかないほどで、140〜150年は経っているという事ですが、ただ先代から雲蝶に作ってもらったとは聞いていないとの事。
仏壇の隅にでも名前を残しているかもしれませんと言うと「この仏壇を1度も動かして大掃除をした事もない」そうで、裏や底も見たことはないと言います。

今度お盆の時にでも大掃除をしてみて、昔の過去帳でもあったら面白いなぁとおっしゃっていました。
銘がなく言い伝えもないというと、勝手に雲蝶のものだと言いきれませんので、保留にしてお盆が過ぎた頃、また伺ってみようと思っています。

雲蝶が大作を残した同じ集落だという事と、年代も同じような頃で、他にある雲蝶作の仏壇と酷似している点が楽しみなところです。
お盆が過ぎたらまたこのブログに掲載したいと思っています。

ではまた来週

すい子


 
posted by 南魚沼雲蝶会 at 09:49 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年06月13日

つぶやき その106

≪ 豊かな表現力・見るからに 恨めしや〜〜〜 こ、怖−−−−いっ!! ≫

皆さまもよくご存知の通り、魚沼の代表作といわれる永林寺と西福寺の開山堂、それに龍谷寺は写真撮影ができません。
以前は本堂の中も撮影ができたお寺様も有りましたが、最近はどちらもご遠慮いただいているようです。
永く文化財を保存する意味では、仕方のない事なのかもしれません。

雲蝶の豊かな表現力は、文化財に止めておくのに(笑)もったいない気がします。
文化財の指定を受けるという事は、後々までも面倒をみてもらえるという利点はありますが、その為の厳しい規制は目をつぶらなければなりません。その為、各お寺様ではパンフレットなどを用意してくださり、拝観者に配慮してくれています。
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随分前のパンフレットになりますが、余りの怖ろしさでどうすれば彫り物の中でこんな表現ができるのだろうと思ったくらいです。
恐ろしさと怖ろしさの違いですが、ギヤマンを使った龍や獅子の目は、睨みつけられる恐ろしい表情に幼な子が泣き出してしまうそうで、雲蝶の腕と道具がそれを彫りあげるんですね。

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ところがこちらはというと、「身の毛もよだつ」怖ろしさです。

「永平寺血脈池縁起」の題がついている欄間で、鎌倉時代初期に活躍し道元禅師に帰依し た波多野義重の侍女の幽霊の話になっています。
この侍女が殺されて池に沈められるという事件が起きたんです。
この幽霊が侍女の霊で、思いがけなく命を奪われて恨めしさの余り、夜な夜な池のほとりに現れて成仏できないでいたのです。
それを道元禅師が血脈を授けて侍女の霊を供養したというストーリーの欄間があるのですが、まさにこの世に未練があって死にきれないという心の叫びのような表情がリアルに感じ取ることができますよね。

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【幽霊の写真3枚は西福寺パンフレットより抜粋】
雲蝶は何を思いながらこの侍女の表情を彫ったのか、気にかかります。
獅子の恐ろしさと幽霊の怖ろしさ 同じ雲蝶の作品です。

皆さんはどう感じますか?実物を眺めに西福寺を訪ね てみてください。

ではまた来週

すい子

posted by 南魚沼雲蝶会 at 08:00 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年06月06日

つぶやき その105

≪ 三国峠の旧街道は、江戸時代の旅人の足音が聞こえました ≫ そのA


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三国峠の旧街道はどうしても見ておきたかった場所です。
江戸時代から現在に至るまで消える事のなかった道の歴史は、その時代を繋ぐ重要な役割を果たしてきたはずです。
江戸時代に開かれたこの三国街道も、比較的平穏な時代に往来した旅人や、参勤交代の行列だけではなく、戦火に焼かれ幾となく繰り返されてきた戦の中で多くの血で染められた峠でもあります。

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180606_05.jpgこの新緑の中を歩くだけでは、それを想像する事はできませんが街道の至る所で起きた戦いの戦況が、歩くたびに石畳の下から伝わってくるような身震いを感じました。
それは、所々に残されている当時の様子を伝える立て看板にあるのかもしれません。
歩きながらそれを読むたびに、ここで起こった戊辰戦争の悲惨さや、この峠に残る真実が学習でき旧街道を歩くことはその時代のその時を見る事ができる瞬間だと感じました。


私の『 見たい時代のその時 』は、伝え聞くところによると雲蝶と源太郎が初めて出会ったといわれている三国峠の山頂にある三国権現堂です。これを見る為に今回の旧街道散策の計画を立てました。

一人ではないという心強さと、写真を撮ってくれる人がいるという事は、大変有難い事です。
景色だけではなくその時の散策の様子も皆で写真におさまる事によって楽しめますから。
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本来の目的はこの権現堂です。
思った以上に新しいお堂で意外だったのですが、そのはずです。平成26年ごろに建て替えているようです。
それ以前は、老朽化が進み明治後半に倒壊してしまった為、明治39年上越線開通に尽力した塩沢の岡村貢が再建しました。
現在まで何回建て替えをしたのかはっきりしたことは私の知識ではわかっていませんが、雲蝶と源太郎が出会ったといわれる弘化2年(1845)は173年前になりますので、当然今の建物ではない事だけは分かります。

言い伝えでは二人が腕比べの為に彫った金剛力士像は、このお堂の中に奉納したという事になっていますが、未だかつて「あった」とか「見た」とかいう話は資料の中にも残されていません。

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そんな中、嬉しい事に小林源太郎の彫り物だけは残されているんです。源太郎は雲蝶よりも早くに越後入りしを何度も峠を行き来していたため、二居宿の二居講からの依頼を受けて中国に伝わる「八佾の舞」の舞姿を珍しい沈み彫りという技法で彫りあげ、二居講はこれを権現堂の扉として奉納したのです。

誠に素晴らしい扉だったため、その後勃発した戊辰戦争の戦火に巻き込まれないようと扉は外されたようです。
世の中の情勢が目まぐるしく変動する中で、この扉はどのような経緯をたどったのかは今後紐解いてみたいと思うのですが、近世になって岡村貢の手に渡っていたものを、湯沢温泉ホテル高半のご当主が譲り受けたと聞いています。

こちらのホテルは作家、川端康成の名作「雪国」を執筆するため滞在していた宿で、当時の部屋「かすみの間」と共に権現堂の源太郎の扉は、衝立に作り替えられて違う時代に残されたものが、現在は同じ場所でその歴史を物語っています。

残念ながら言い伝えの二人の彫り比べをしたという金剛力士像は、後世になって伝えられるようになった想像上の力士像なのかもしれません。
それも大事な言い伝えです。二人の歴史上の人物を少しでもイメージできれば雲蝶像が広がります。

ではまた来週

すい子


 
posted by 南魚沼雲蝶会 at 13:39 | Comment(0) | 会長のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする